ブータンの社会では、仏教の哲学・倫理的側面の中から、現代の社会にも適用しうる部分を抽出し、憲法や政策の中に取り込んでいる[1]。中でも、ブータン王国憲法第九条第二項に掲げられているGNHという概念はとりわけ重要であろう[2]。GNH(国民総幸福量, Gross National Happiness)の定義は様々に存在するようであるが、一例として「GNHは国家の質を(GNPよりも)総合的に量り、人間社会のより良い発展は物質的な発展と精神的な発展が隣り合ってお互いに補足し合い、強化し合うところに生まれるという信念に基づく」という表現がある[3]。ブータンの国政はこのGNHの理念に沿って進められているのである。

GNH(国民総幸福量)の政策

GNHは、1970年代にジクメ・センゲ・ワンチュク第四代ブータン国王(1955~)により提唱された概念である。以後、世界的に知られるようになった[4]。その当時、世界各国がGNP(Gross National Product, 国民総生産)を最優先していた中で、第四代ブータン国王は、幸せはモノやお金以上に大事な要素だとしてGNHを国策の主軸に据えた。
現在、ブータン政府の政策はすべて、GNHの理念に裏付けられていなければならないとされる。どんな政策であれ、首相をトップとするGNHコミッションにより、GNHの理念を忠実になぞるものであるかどうかが判定される[5]。ある政策案が仮に経済成長に効果的なものであったとしても、例えば環境を破壊したり、コミュニティを侵害したりする可能性があれば、GNHコミッションから変更が促され、もとのまま推進することはできなくなる[6]。また、王立ブータン研究所が中心となり、5年に一度の国勢調査(GNH調査)が行われ、全国の各世代の幸福度が調査されている。
このGNHには、4つの柱と9つの領域、33の尺度がある。しばしば誤解があるので注意しておかなければならないのは、彼らはGNH政策を進めるからといって、GNPやGDPといった経済的側面を決して頭から否定するのではないということである。ただし、彼らにとって経済は、しばしば先進国で考えられているほどには絶対的な要素ではないのであって、せいぜいGNHを支える四本柱、或いは九領域の一つにすぎない。すなわち、GNPやGDPはGNHの一部を占めているに過ぎないのである。幸福を維持していくうえで経済成長は大事である。しかし、ただ単純に物質的に発展していけば良いということではなく、物質と精神とのバランスを取りつつ発展させながら、幸福を実現することが重要視される。ここにも、「物質のみ」、あるいは「精神のみ」といった両極端の考えを避ける「中道」という仏教的な哲学思想が働いているものと思われる。

GNHの構成

GNHには4つの柱(pillar)が存在している。「持続可能な開発の促進」(promotion of sustainable development)、「文化的価値の保存と促進」(preservation and promotion of cultural values)、「自然環境の保全」(conservation of the natural environment)、「善い統治の確立」(establishment of good governance)である。経済的側面は、「持続的な開発の促進」という柱に含まれ、GNHを支える大きな軸の一つであるが、逆に、軸の一つに過ぎないとも言える。
また、GNHの9つの領域(domain)とは、「教育」(Education)、「生活水準」(Living Standard)、「健康」(Health)、「心理的幸福」(Psychological Well-being)、「コミュニティの活力」(Community Vitality)、「文化の多様性・弾力性」(Cultural Diversity & Resilience)、「時間の使い方」(Time-Use)、「良い統治」(Good Governance)、「環境の多様性・弾力性」(Ecological Diversity & Resilience)である。経済は、「生活水準」の領域に含まれるであろう。すなわち、経済はあくまで「生活水準」という9領域の一つとしての重要性を持つにすぎず、絶対的な要素ではないということになる。また、ここでの生活水準とはあくまで国民一人ひとりが営む生活の水準が問題となっているのであり、一握りの人間が富を独占する事態があってはならないことが前提となっている。

(執筆:熊谷誠慈先生)

33の尺度について
脚注