ある研究者の考古学的見解によると、ブータンの地には4000年前頃から人が定住していたのではないかとのことである。しかし、その時代のブータン人たちがどのような生活を行っていたかは定かではない。歴史書や口頭伝承などによって歴史事象の検証が可能となる有史時代については、大きく以下の3つの時代に区分することができよう。
- シャプドゥンによる建国以前(7~17世紀前半)
- ドゥク派政権時代(17世紀前半~1907年)
- ワンチュク王朝時代(1907年~)
1. シャプドゥンによる建国以前(~17世紀前半)
ブータンの地が初めて統一され、国家となったのは17世紀になってからのことである。しかし、それ以前からブータンには人が住み、文化が存在していた。
7世紀以降、チベット文化圏の南端の国として、チベットから大きな影響を受けるようになった。ブータンの伝承では、7世紀前半には、チベット(吐蕃)のソンツェン・ガンポ王(581-649)が、キチュ寺(西ブータンのパロ県)などの仏教寺院を建立したと言われている。また、タクツァン寺(西ブータンのパロ県)など、8世紀にブータンを訪問したとされるインド人ヨガ行者パドマ・サンバヴァ(グル・リンポチェ)に帰される寺院も存在する。
チベットでは9世紀に王朝が崩壊し、仏教も衰退していった。11世紀以降、チベットで仏教が復興していく中、チベット仏教の諸宗派が、南隣のブータンの地で積極的に布教を始め、荘園化を進めていった。3000メートルを超えるチベット高原では得られる資源に限りがあったため、米・木材・紙・薬草・染料・竹製品などの産物が豊かなブータンは、チベット側にとって大変魅力的な地域であった。後にブータンの国教となるドゥク派は、13世紀にブータンに進出を始めた。
2. ドゥク派政権時代(17世紀前半~1907年)
中央チベットの中南部に拠点を持っていたドゥク派に変革が起こったのは、17世紀前半のことである。ドゥク派史上最高の学僧ペマ・カルポ(1527-1592)の死後、二人の化身候補が現れた。一人はドゥク派第17代座主のシャプドゥン・ガワン・ナムギェル(1594-1651)、もう一人はパクサム・ワンポ(1593-1641)であった。ツァン地方の摂政が後者を正当な化身と認定したことを受け、シャプドゥンは争いを避けるためにチベットからブータンへと拠点を移すことになったと言われている。
シャプドゥンがブータンに移動すると、ラマ五派と呼ばれる現地の仏教勢力との軋轢が生まれ、攻撃を受けることになった。それらの勢力と戦い、撃退していく中で、シャプドゥンはブータン全土に勢力を拡大していった。シャプドゥン率いるドゥク派は、ブータンの地を統一し、それまでヒマラヤの一地域にすぎなかったブータンが、初めて統一国家となった。以後、ブータンは現地の言葉で「ドゥク派の国」(ドゥクユル)と呼ばれている。なお、ブータン(Bhutan)という呼称は、サンスクリット語のボーターンタ(Bhoṭānta, チベットの端)の発音がヒンディー語化され、英語化されたものである。以後、長期にわたりドゥク派による宗教政権が続いていった。
3. ワンチュク王朝時代(1907年~)
19世紀には、イギリスやインドの干渉により、国家運営が不安定となり内乱が多発した。そうした状況下で、中央・東ブータンの領主であったウゲン・ワンチュク(1862-1926)がブータン全土を統一し、1907年に初代ブータン国王となった。ジクメ・ドルジ・ワンチュク第3代国王(1929-1972)の時代には、近代化と国際化が進み、1971年にはブータンは国連に加盟した。ジクメ・シンゲ・ワンチュク第4代国王(1955-)の時代には、近代化と国際化をさらに推し進め、国民総幸福(GNH)政策が開始され、ブータン王国は世界の幸福政策をリードする存在となった。ジクメ・ケサル・ナムギェル・ワンチュク(1980-)が第5代国王の即位後、2008年には、ブータン王国憲法が制定され、国政選挙も始まり、絶対君主制から立憲君主制へと移行し、現在に至る。
(執筆:熊谷誠慈先生)